リリアン女学園高等部体育館。
学園祭も間近に迫ったこの時期、ここは当日使う予定の部やクラスが入れ代り立ち代りなのだけれど、今は閑散としていた。
演劇部のリハーサル。舞台を見つめる観客は、二人だけ…。
瞳の中の迷宮
「楽しみだね、由乃さん」
わくわくしながら舞台を見つめるのは紅薔薇のつぼみ。
「あのねぇ、祐巳さん、私たちは一応視察が目的なんだからね」
ちょっと飽きれて隣を見やるのは黄薔薇のつぼみ。
二人は紅薔薇さまの指示で、舞台の視察と所要時間、その他問題点の確認をするために来ているのだけれど…。
「瞳子ちゃんも出るんだよね? どんな役なんだろう?」
「事前に台本も見せてもらえなかったし、見てのお楽しみってことじゃない?」
由乃はちょっと退屈そうに両手を組んでその上にあごを載せた。
確かに通し稽古とはいえ、見学する側からすればちょっとした先行上映を見ているようなもの。役得とはいえなくもないのだけれど、何かひっかかるものがあって、由乃にとってはちょっと不満なのだ。
対して祐巳さんはというと、もう瞳子ちゃんの舞台が見れるというだけで大騒ぎ。
そんなに気になるなら、さっさとロザリオを渡してしまえばとも思うのだけれど、そこはそれいろいろと事情があったりもする。
由乃にとっても梅雨時のような想いはもうしたくないし、何より今は暖かく見守る方がいいと思っているから何も言わない。
「ほんと、見てていらいらするけどね」
ぽつりと呟くと。
「えっ、何?」
こういうところはしっかり気づいてくれるから始末が悪い。
「何でもない。あ、始まるよ」
舞台の方に目を向けると、幕がゆっくりと上がっていくところ。
「さあて、何が飛び出しますやら…」
舞台はフランスの片田舎。主人公は仲の良い姉妹。
それを演じるのは三年生のお姉さま方。
姉はおしとやかで清楚な美人、妹は笑顔が素敵な可愛い子。
傍目に見ても、思わず微笑んでしまうような、村でも評判の仲良し姉妹。
そんな二人のもとへ、ある日一人の少女がやってくるところから物語は始まる。ちょっと大きめの旅行鞄を携えた少女は、姉に二人の父親からだという手紙を渡し、「私はあなた方の妹です」……と呟いた。
手紙の内容は父親が重い病にかかりもう先が長くないこと、妹とこの手紙を持っていく天涯孤独の少女のことを頼むこと、その他もろもろのことが綴られ、最後に迷惑をかけてすまないと結ばれていた。
姉はその手紙を読み、悩んだ末、少女を養うことにした。
少女の口から妹に父親の死が告げられることを恐れたから。
妹が、遠くへ仕事に行っている父親がいつか帰ってくると信じていたから。
妹は姉がそれでいいならと納得した。
妹が出来るみたいで嬉しかったという想いもあった。
それに、天涯孤独の子を関係ないと放り出すことができなかったから。
少女は物怖じしない性格ですぐに二人の生活に溶け込んだ。
ただ、町の人達にもはっきりと正論を言う子だったので、二人はその言動にひやひやすることも度々あった。
「なんか似てるわね」
「へっ?!」
「祥子さまと祐巳さんに」
舞台に熱中してたのか、素っ頓狂な反応を示す祐巳に、少しこめかみを押さえながら由乃は答えた。
「…う…ん…」
ややあって同意の返事。そして疑問。
「そういえば演技してるのって、みんな三年生と一年生だよね。二年生はどうしちゃったんだろう?」
「祐巳さん…」
由乃は眉間に皺を寄せて、少し声に迫力を込めた。
「な、何かな?」
ちょっとたじたじになる祐巳。その顔は、『あ、やばいかな』って表情を見せている。
「今はそんなこと関係ないでしょ。きっと皆裏方なのよ」
そう言ってから舞台に目を戻す。丁度お話が展開を見せ始めたところだった。
この村には初夏の季節に花祭りというお祭りがある。
姉妹はこのお祭りに二人で行く約束をしていた。
ところが、姉は今年は少女も交え、三人で行こうと言い出した。
夜も更け、少女が床についた後、二人でお茶を飲んでいる時のことだった。
妹はどうしてと詰め寄った。
ずっと前から楽しみにしていた約束。二人でダンスをしようねとも語り合った。
少女は確かに可愛かったし、妹にもよく懐いていた。
ただ、どちらかと言えば、感性で行動してしまう妹に、理論派の少女の言動はかちんとくることも多々あったし、少女と姉が何度か内緒話をしているところも目撃したことがある。
なんだか隠し事をされているみたいで嫌だったし、姉妹二人っきりでいる時間は確実に減っていた。
そんなことが重なって、妹の気持ちは徐々に沈んでいった。
笑顔が消え、俯きがちになり、何か悩んでいるように見えた妹を元気づけようとした姉の提案だったのだが、それは逆効果だった。
「お姉さまはあの子のことが可愛いのでしょう。私よりもずっと…」
「いいかげんになさい。怒るわよ…」
初めての姉妹喧嘩。
心に溜まっていた鬱屈とした想いを吐き出す妹を受け止めきれない姉。
激しく罵り合った二人は無言で自分の部屋へと戻っていく。
その光景を扉の影から見つめる瞳があったことも気づかずに…。
「ちょっと身にしみるね…」
幕間に祐巳さんが涙ぐんでそう呟く。こんな時、素直に感動できる親友を羨ましいとも思う。
でも由乃はもっと別のことを考えていた。
「誰が創ったのかしら、こんな茶番劇…」
ぽつりと呟く。
「えっ?」
相変わらず変なところで鋭い祐巳に苦笑しつつ、なんでもないと答える。
「ほんと、何がしたいのやら…」
次の幕が開いていく。
外は雨。
薄暗い家の中には少女が一人っきり。
姉は近所のおねえさんの所へ、妹もまた仲良しの友達の家へ。
大喧嘩の翌日からこの家には少女がたった一人きり。
幸せだった。
二人の父親に出会って、仲良し姉妹のことを聞かされ、手紙を託されて、二人を訪ねる時はほんとにドキドキした。
暖かい笑顔に迎えられて、幸せな、本当に幸せな二人の隣に自分も行けるかもしれないと思った。
心からそうなりたいと願った。
だから、自分を飾ることはしなかった。
ありのままの自分を見てもらいたかったから。
それが二人の父親が少女に託した遺言だと思えるから。
そうすればきっと、受け入れてもらえると信じたから。二人の父親を見て、そう思ったから。
疫病神と言われ、親戚中をたらい回しにされ、天涯孤独の身になった自分を暖かく包んでくれた二人の父親の言葉だったから。 『素直な良い子でいれば、イエス様はきっと見ていてくださるから…』
それさえも少女の前には砂のお城でしかなかったのか。
「本当の……妹……だったら、良かったのに……」
ぽつりと呟いて、少女は傍らに置いてあった旅行鞄を手に取った。
外は雨。
薄暗い家の中には、もう誰もいない…。
ガタン。
立ち上がりかけた祐巳の腕を由乃の手が引き止めた。
「由乃さん…」
向けられた瞳には大粒の涙が光っている。
「どこに行くの?」
舞台に視線を向けたまま、由乃は問いかけた。
「もう、私、見てられないよ…」
祐巳は手を振りほどこうとしたが、由乃はがっちりと腕をつかんで放さない。
剣道部で竹刀を振り回してついた握力に感謝。
今この手を放したら、自分がここにいる意味がなくなる。
志摩子さんではなく、自分にこの役を任せた黒幕にちょっぴりの悪態と沢山の感謝を覚えつつ。
「今逃げたら、救われないよ」
「えっ?」
「あそこで、つま先立ちのまま、意地を張り続けてる馬鹿な娘が…」
「だって、泣いてるんだよ、瞳子ちゃん、泣いてるのに…」
「それでもあの娘は舞台に立ってるよ。きっと最後まで舞台を降りない」
キャラが被ると認める自分が言うんだから間違いない。それが女優松平瞳子の意地なんだ。
「だから、祐巳さんは最後までこの舞台を見る義務がある…。友達やめるって言われても、この手は放さないからね」
正直、自分がそこまで言うとは思わなかった。
さすがに、面と向かって言うだけの勇気はなかったから、視線は舞台に向けたままだったけれど。
かたんと椅子を直して座る気配がする。
そしてつかんだ手に添えられる手。
「ありがとう、由乃さん…」
重ねられた手のぬくもりがとても暖かくて、涙が出そうになった。
妹が坂をのぼっていく。
落ち込んだ姉が待つ、近所のおねえさんの家へと。
いろんな誤解があった。自分の知らないことが沢山あった。
それは姉と少女が自分のために隠しておいてくれたこと。
落ち込んだ。どん底まで落ち込んだ。
でも、打たれ強い彼女は二日で立ち直った。
親友の支えがあった。ご近所の皆さんの励ましがあった。
それらに感謝しつつ、坂道をかけていく。
大好きな姉が待つその家へと…。
由乃は隣を見た。
祐巳は涙をこらえ、食い入るように舞台を見つめている。
降りた幕の先にある、ほんのちょっと未来の舞台を見ているかのように。
由乃もまた、舞台に視線を戻した。
梅雨の物語はここで終わりだった。
本当の物語はここから始まる。
ずず、ず…。
右足を引きずりながら、少女が山道を歩いている。
どこかで拾った棒切れを杖にして。
その支えがすべって、ばたんと転んでしまった。
そこに妹が現れる。
「探したんだよ、いっぱい、いっぱい探したの。だから、ね、一緒に帰ろう」
涙をこらえて、笑顔で差し出された手。
それを少女は、思いっきり振り払った。
「折角いなくなってあげましたのに、追いかけてくるなんて、ばっかみたい」
不敵に微笑む少女。ちょっとたじろぐ妹。
「楽しかったですわ。幸せな家庭が壊れていく様を見るのは」
ガシャン!!
倒れたのは隣の椅子。
由乃に腕をつかませる隙すら与えずに駆け出した祐巳は、そのまま舞台の袖に張り付いた。
「どうして?! どうして、そんなこと言うの、瞳子ちゃん!! なんで素直になれないのよっ!!」
バンバンと両手で舞台を叩いてそう叫ぶ。
「祐巳…さま…」
一瞬あっけにとられた瞳子の元へ、舞台によじ登った祐巳が駆け寄る。
差し出された手が、そっと瞳子の頬に添えられる。
ふぃと横を向くと、もう一つの手が反対の頬に添えられて、正面を向かされた。
そこには祐巳の笑顔。
ぽぽぽと耳まで赤くなるのは一瞬で。
「ほら、こんなに素直なのに…」
その一言で女優松平瞳子は、祐巳の瞳子ちゃんに戻ってしまう。
ずっと堪えていた涙が頬を一滴伝った。
「もう…舞台が…台無しですわ…」
「あは、ごめんね」
目頭の涙を拭いながら祐巳が謝罪する。
その祐巳の手を妹役の三年生がとって、自分の手のひらとパチンと合わせた。
「交代…」
雨上がりの道を二人で手に手をとって歩く。
二人の大好きな姉が待つ家に向かって…。
「全く、世話焼かせるんだから…」
最後の幕が降りていく様を見ながら、由乃が目頭を押さえて立ち上がると、後ろからわっと歓声、拍手があがった。
振り返るとそこには、演劇部の二年生が勢ぞろい。
「なあるほど、そういうことですか…」
エピローグ
夕日に染まる薔薇の館。
二階の会議室には影が四つ。
「もったいないよね〜。良いお話なのに」
呟いて令さまが台本をテーブルに放る。
「仕方ないわね、二年生抜きでやるわけにもいかないし。祥子さんに話を聞いたときは驚いたけど」
そう答えたのは、演劇部の部長さん。
「感謝しているわ、ありがとう」
微笑む祥子さまはどこか寂しげ。
「でも本当にこれだけの劇を私たちが修学旅行に行っている間に?」
令さまが放り出した台本をパラパラと捲りながら志摩子さん。
「準備は夏休みからやってたし、二年生がいない間のテンション維持にもなったから」
「ああ、それで。運動会の時いろいろ相談してたわけね」
令さまがぽんと手を叩いて、合点がいったように呟く。
「でも……」
志摩子さんが納得いかない顔をして呟く。
「よく瞳子ちゃんが納得しましたね…」
それを聞いて祥子さまと部長さんがくすくすと笑いあう。
「罰ゲームなのよ」と祥子さま。
「だから公演は一回きり」と部長さん。
夏の別荘で…。
西園寺家のパーティに祐巳を連れて行く、行かないで言い争った祥子と瞳子がした賭け。
負けたほうが何か一つ言うことを聞く。
この話をしたときの瞳子ちゃんの驚きの顔を思い浮かべて、祥子さまはふふふと笑みを浮かべたのでした。
Fin
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