その日の放課後、薔薇の館の二階会議室兼サロンは静かだった。
紅薔薇さまは先生方との打合せ、黄薔薇姉妹はクラブ活動、白薔薇さまは文化部関係の打合せ、白薔薇のつぼみこと二条乃梨子ちゃんは細川可南子ちゃんと共に遅れている作業の助っ人に出かけており、残っているのはスケジュール調整作業中の紅薔薇のつぼみこと福沢祐巳のみ。
つい先程、演劇部の練習を終えた松平瞳子ちゃんがやってきたけれど、連日の掛け持ちが響いているのか、今は祐巳の隣の席で軽い寝息をたてていた。
太陽はもう西に傾いて、間もなく夕暮れ時。
今日は山百合会としての打合せはないので、各自作業が終わればそのまま帰宅することになっている。
作業に一区切りつけた祐巳が、そろそろ瞳子ちゃんを起して帰宅の準備をしようかなどと思い始めた頃、一階の扉が開閉する音がして、誰かが階段を登ってくる気配があった。
夏の名残
「祐巳、いたのね？」
ビスケットの扉を開けて現れたのは、紅薔薇さまこと小笠原祥子さま。
先生方との打合せにようやくけりがついたのか、少し晴々とした表情をしている。
「あ、お姉さま。今紅茶をお入れしますね」
「ありがとう」
流しに向かった祐巳にそう言って、祥子さまは瞳子ちゃんの隣の席に腰を下ろすと、祐巳の座っていたテーブルに広げられていた書類に目をむけた。
「作業は終わって？」
「はい、今日の分は。そろそろ瞳子ちゃんを起して帰ろうかなと思っていたところです」
「そう…」
沈黙…。
ポットの中で葉が開いてきたのだろう。ダージリンの心地よい香りが漂ってくる。
「祐巳…」
何か思案していたようだった祥子さまがようやく口を開かれた。
「はい…」
「まだ時間はあって？」
「はい、構いませんけれど…」
何やらただならぬ雰囲気にそう答えると。
「お座りなさい…」
さっきまで座っていた椅子を示される。
書類をまとめて脇によせ、ティーカップを配ると、祐巳は椅子に座って居住まいを正した。
祥子さまは優しげな表情を浮かべて瞳子ちゃんの頭を撫でている。
それで何となくだけど察しがついた。
祥子さまは、祐巳に隠していた何かを語ってくださるおつもりなのだと。
緊張に祐巳の喉がこくりと鳴った…。
「瞳子ちゃんのお祖父さまが、彩子お祖母さまの主治医だったことは知っているわね？」
「はい…」
お姉さまのお話によると、瞳子ちゃんはお祖父さまが電話で話しているのを聞いて、彩子お祖母さまの容態が良くないのを知ったらしい。
私にそのことを知らせないでと、彩子お祖母さまに頼まれていたお姉さまは、瞳子ちゃんに口止めをする代わりに同行を許可したということだった。
「この子のお祖父さまが丁度いいからと、私への連絡係にしてしまって…」
「それでいつもこっそり会ってたんですね」
お姉さまはふぅと息を吐いて、紅茶を口にした。
「あなたがここで叫んだ時、驚いていたわ…。どうして私が…って」
「えっ？ それじゃあ…」
「あなたとの約束のことは話してなかったの…」
それじゃあ、私が落ち込んでいた理由を瞳子ちゃんは知らなくて。
それであんなに普通に接してて…。
「じゃあ、あの、昇降口でのことは…」
「この子のセッティングよ…。『時間はないけれど、話して誤解を解かなきゃだめですわ』って…」
そうだったんだ。でも私はお姉さまから逃げてしまって…。
祥子さまはそんな私を見て、くすりと笑みを浮かべた。
「ミルクホールであなたに喧嘩を売ったんですってね…」
「あ…えっと…」
そう、へらへらするなって怒られたような…。
「『泣きそうな顔で無理して笑うくらいなら、言いたいこと言えばいいのに』って泣きながら報告してくれたわ…」
祥子さまは愛しそうに瞳子ちゃんの髪をなでた。
「瞳子ちゃん、言ってくれればよかったのに…」
なんか涙がでてきちゃった。
「言えなかったのよ。この子、律儀に私との約束をまもって…」
それでもヒントはくれたんだね…。
祐巳は瞳子ちゃんのほっぺを指でちょんとつついた。
「う、ん……」
ちょっと照れたように瞳子ちゃんが顔を背けた。
長い話が終わった……。
後半はほとんど祥子さまの独白と言った感じで、祐巳は完全に聞き役に回っていた。
ちょっと凝った体をうーんと伸びをしてほぐす。
「私の知らないところでいろんなことがあったんですね」
感動したという想いを素直に口にする。
「黙っていてごめんなさいね。時期が来るまではあなたに伝えるべきではないと思っていたものだから…」
「いいえ、お姉さまがあやまることじゃありません」
そう、今だから落ち着いて聞くことができたのだと思う。
館の天井を眺めながら、話に聞いた光景を思い浮かべる。
ところどころ欠けていたピースがぴたり、ぴたりとはまっていく。お姉さまと祐巳と瞳子ちゃんの絆を更に太く、強く形作るように。
窓から吹き込む風が少し冷たさを運んでくるようになった。
「そろそろ帰りましょうか」
「そうですね。あ、瞳子ちゃんを起さないと…」
祐巳がそう言うと、祥子さまはまぁとくすくす笑った。
「祐巳が気づかないほどの狸寝入りなんて、なかなかのものね」
「お姉さま、今さりげなく酷いことおっしゃいませんでした？」
「さあ、なんのことかしら」
「もう」
二人でじゃれあっていると、はぁと深いため息が。
「もう、聞いてられませんわ。私がいることをずっと無視なさってるんですもの…」
眠り姫は少々ご不満のようである。
「だったら、早々に目を覚ませば良かったのに」
祐巳が後ろからぎゅっと抱きしめると。
「もう、祐巳さまはすぐそうやって……」
口では嫌がっているように見えても、振りほどくほど力は入れてこない。
祥子さまはそんな二人を優しく包み込むような笑みを浮かべ、眺めていた。
「だいたい、私のことを話してらっしゃるのに、どんな顔をして目を覚ませとおっしゃるのですか？」
夕日に染まった銀杏並木を今日は三人で並んで歩く。
「こんな顔」
なんと祥子さまが両手の人差し指で瞳子ちゃんの口を左右に引っ張る。
「ひゃ、ひゃひぃひょひゃみゃ、ひゃひひょひゃひゃひゅんひぇひゅひゃ…」
「あはは」
「ふふふ」
「もう、お二人ともいいかげんにしてくださいまし！」
三人の笑い声がずっとマリア様のお庭に響いていた。
Ｆｉｎ
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