小夜曲
〜 Side Story 〜



「ごめんなさい、瞳子ちゃん」
 祐巳さまは申し訳なさそうに手を合わせた。
「日曜日のお出かけ、来週に延期できないかな?」
 悲壮な顔をして何をあやまるのかと思えばそんなこと。まったく祐巳さまは。
「構いませんよ。それに来週なら中間試験も終わっていますし」
 先に憂いごとがない分、より楽しめるだろう。そう告げると、今まで泣きそうだった表情が一瞬でぱあっと華やいだ。
「良かったぁ。瞳子ちゃん、ものわかりよくって」
 えへへって照れ笑いを浮かべる祐巳さまに、思わず愛想笑いを返してしまう。
ちょっと残念だったけど、キャンセルじゃなくて延期だからいいかって思った。
 ……だけど、その次の週もお出かけは実現しなかった。


 既視感


 中間試験も終わり、乃梨子さんと軽くおしゃべりした後、祐巳さまの教室へ向かった。
日曜の予定がまだ決まっていなかったので、それを確認するつもりだったのだ。
今日はクラブ活動も委員会もお休みだから、運がよければ一緒に帰れるかもしれない。
そう思うとステップも少し軽やかになった。

 廊下の角を曲がると、特徴的なツインテールが見えた。
祐巳さまは教室の扉に寄りかかり、誰かと話をしているようだった。
何故だかシルエットがかったその娘は、祐巳さまの手をとって揺らしながら、何やらおねだりをしているように見える。
胸の奥がちくんと痛んだ。
声をかけずらいなぁと思っていると、その娘が気づいたのか、黒塗りの顔の中で口の部分だけが怪しく開いた。
「あ、瞳子さま……」
祐巳さまは振り返らなかったけれど、その背中を見ればすぐにわかる。
きっと気まずそうな顔を浮かべているだろうと…。

 漸くこの奇妙な状況が自分の見ている夢なのだと理解できた。
祐巳さまと二人でお出かけなんて、そんなことあるはずないし。
覚醒した意識はそう考えるが、夢の中の瞳子の心もダイレクトに伝わってくる。

 何度もお出かけを延期され、その影にはシルエットの少女の姿がちらつく。
うわべだけの優しさを振りまく祐巳さま。
百面相してるのだからすぐわかってしまうのに。

(だから言いたいことがあるなら、はっきり…おっしゃれば…いいのに…)
 意識の瞳子はそう呟く。けれど……。

「わたしより……ちゃんの方を選ぶんですね!」
 夢の中の瞳子は、祐巳さまに向かって叫んでいた。
それは、忘れようとしても決して忘れることのできなかった、あの日の祥子お姉さまと祐巳さまの姿。

 気づいていた。
祥子お姉さまが祐巳さまに、祐巳さまが瞳子に代わっているが、これは6月に確かに起こったこと。

「瞳子ちゃん、祐巳を見捨てないであげて」
 祥子お姉さまがそう言って、闇の中へ消えていく。
祐巳さまの時はきっと聖さまだったのだろう。そんな気がした。

 お使いに行って、お気に入りの傘を無くしてしまった。
凄く悲しい気持ちになった。
シルエットのあの娘に祐巳さまを取られてしまったかのように。

「きっと祐巳さまが悪いに決まってる。私も一緒に抗議してあげるから」
 そう言って励ましてくれたのは、何故か乃梨子さんではなく、細川可南子だった。

 そしてあの日の昇降口……。
シルエットの娘が登場しただけで、瞳子の心は一瞬にして凍りついた。
その後に何か言っているようだったけれど、優越感から出た言葉にしか聞こえなかった。
「瞳子ちゃん……」
 雨の中、祥子お姉さまに抱きついて泣きじゃくる瞳子にかけられた声は、今にも泣しそうだった。

 意識の瞳子は知っている。
あの後、祥子お姉さまがどうなったかを。
「祥子お姉さまとドライブできるだけで嬉しいんです…だって…」
無邪気におねだりした言葉を、泣きながら繰り返したのを覚えている。
病院に着くまで、車の中は針のむしろだったのだ。

「最低」、「やっぱり、あなたは祐巳さまにはふさわしくありません」
 シルエットの少女が怒りを露にした言葉を投げつけてくる。
その言葉は大きな楔となって瞳子の胸に突き刺さり、画面を黒く引き裂いて行った。

(もう…やめて…)
 意識の中の瞳子は泣いていた。頬を冷たい雫が流れていく。

 場面が切り替わった。
暗く、寂しい雰囲気の場面から、暖かい場面へと。

 瞳子は祥子お姉さまに連れられて、彩子お祖母さまのお屋敷に来ていた。
何故か生前の元気な彩子お祖母さまがそこにいらして、お風呂から上がった瞳子の頭を優しくなでながら、お話をしてくれた。
「瞳子ちゃんは、その方のことが好き?」
「はい」
 不思議なほど素直にその言葉は瞳子の口をついてでた。
夢の中の瞳子の想い。純粋な気持ち。それは確かに、祐巳さまのことが好きと告げていた。
「そう、良かったわ」
「え?」
「瞳子ちゃんが祐巳さんを好きなら、二人の仲はきっと大丈夫。だって、瞳子ちゃんが選んだ人なんだから」
「私が選んだ? 選ばれたのではなくて…」
「そう、祐巳さんはきっとあなたのことを理解してくれるわ。だから素直におなりなさい」
 頭をなでてくれる手は、まだ瞳子が小さかった頃の彩子お祖母さまだった。
心が少し元気になった気がした。

 翌日学校に行くと、中学時代の担任の先生から呼び出しがあった。
いつも回りくどい言い方をする先生だったけど、優しげな表情は印象的だった。
その先生が差し出してくれたのは、なくしたはずのお気に入りの傘。
お話の内容は良く聞きとれなかったけれど、瞳子には傘が返ってきたことが、祐巳さまの心が瞳子に戻ってきたことのように感じられた。
分かっている。祐巳さまの心じゃなくて、瞳子の祐巳さまを想う心が復活してきたのだと。

 目の前に突然シルエットの少女が現れた。
「どうして、私を選んだんですか?」
毛を逆立てて威嚇する子猫のようなしぐさが、どこか憎めないような気がしてくる。

(そうだった、確かにあの時、祐巳さまは優しく微笑まれた)

 そのときふいに、まだ知らなかった感情が湧き上がってきた。

(あっ…)

 涙がこぼれた。
それはあの時、祐巳さまが言葉にしなかったもう一つの理由。
あの時の瞳子だったら、きっと笑い飛ばしていた。
祐巳さまのことを真剣に見つめられる今の瞳子ならはっきりとわかる。
その想いは、こんなにも心を暖かくさせてくれるのだから。

(祐巳さま……)

(…う…こ…瞳…子…瞳子…)

「……瞳子…」
 誰かが遠くで呼んでいる。
「瞳子!!」
 ゆっくりと目を開けると、乃梨子さんの顔が飛び込んできた。
「瞳子、大丈夫?」
「乃梨子さん…」
 意識がはっきりとしてくるに従って、周りの状況が目に入ってきた。
ちょっと固めの寝台、かけられた白いシーツ、白い天井とカーテン。
リリアン女学園の保健室に間違いなかった。
「午前の授業中に倒れて、ずっと眠りっぱなしだったから心配したよ」
「倒れた?」
「指名されて、黒板へ行く途中でね。もう教室中大騒ぎ」
 ちょっと目頭を抑えて、乃梨子さんは笑った。
「過労と睡眠不足。掛け持ちは大変だろうけど、無理しちゃだめだぞ」
 おでこをぽんとつつかれてしまった。
「心配かけてごめんなさい…」
 俯いたところに白いハンカチが差し出される。
えっ? っと顔をあげると、乃梨子さんの顔にニヤリと笑みが浮かんだ。
「どんな夢見てたか知らないけど、涙の後は拭いた方がいいよ」
「えええ」
 瞳子は慌ててハンカチを掴むと、真っ赤になった顔に押し当てた。
そこでふいに思いついてあることをたずねてみる。
「私、寝言で何か言ってました?」
 すると、乃梨子さんは瞳子の頭をポンポンと軽く叩いて、「聞かなかったことにしといてあげる」と呟いた。
暫くこの話で乃梨子さんには頭が上がらないですわねと思いながらも、気分が晴れた気がしていたので、まあいいかと納得した。
乃梨子さんがふふふと笑いだしたので、瞳子もつられて笑った。
心が凄く軽くなったような気がした。

「瞳子ちゃん、目がさめたの?」
 がらっと扉を開けて入ってきたのは紅薔薇さま、祥子お姉さまだった。
「あ、紅薔薇さま、ご心配おかけしました」
 瞳子はベットの上でペコリと頭を下げる。
 祥子お姉さまは瞳子の頬に手を添えると「熱はなさそうね」と微笑んだ。
「もう大丈夫です」
 ベッドから降りると、珍しく祥子お姉さまが瞳子のタイをなおしてくださった。

「瞳子ちゃん、祐巳のこと助けてくれる気あって?」
 急に真面目な表情になって、祥子お姉さまが呟く。
 祐巳さまとは二日前、ちょっとしたことから言い争いになり、お互い煮詰まっていたこともあり、喧嘩別れしたままになっていた。
翌日から祐巳さまが風邪でお休みしているからだった。
昨日お見舞いに行かれた祥子お姉さまの話によると、食欲がなく、無理に食べさせてもすぐに戻してしまうので、衰弱して熱もなかなか下がらないという。
「先ほど祐麒さんから連絡があって、祐巳が瞳子ちゃんに逢いたがってるって」
「私、参りますわ」
 今むしょうに祐巳さまに逢いたかったから、一も二もなく瞳子は答えていた。
「ありがとう、瞳子ちゃん」
 祥子お姉さまは瞳子の手を握るとそのまま扉の方へ向かった。
「瞳子さん、これ」
 扉の前には山百合会のメンバーが集まっていた。
走って教室まで取りに行ってくれたのであろう、可南子さんが瞳子の鞄を手渡してくれる。
「ありがとう」
 今日は何故だか素直にお礼が言えた。意外だったのか、可南子さんの方が照れている。
それでも確かに聞こえた、「頑張ってね」と。
瞳子は頬を赤らめて昇降口へと向かった。

 祐巳さまの家に着くと、祐麒さんが出迎えてくださった。
「祐巳の部屋は二階だから」
 祥子お姉さまがぽんと背中を押してくださる。瞳子はトトトと階段を上って行った。
 扉の前で一回深呼吸。その後コンコンとノックする。
返事はない。
意を決して瞳子は扉を開いた。
「祐巳さま?」
 呼びかけるとベッドの上の掛け布団が少しだけ動いた。
「祐巳さま…」
 ベッドの傍に跪いてそっと声をかける。
「…瞳子ちゃん?」
 漸く反応があった。
「来て…くれたんだぁ…」
 まだ熱があるのだろう。少し上気した顔がぱあと華やいだ。
ゆっくりと持ち上げられた手がそっと瞳子の頬に触れる。
「夢を…見たの…」
「夢ですか?」
「うん、夢の中で…瞳子ちゃんが泣いてるの。だから心配になって…。でも良かった…瞳子ちゃん、元気そう」
 瞳子の感触を確かめるように、祐巳さまの手が頬をなでる。
その表情がとても愛しく、一言一言紡ぎだす言葉がとても暖かく思えて、瞳子はその手を支えるように自分の手を重ねた。
祐巳さまがちょっと照れたようにえへへと微笑む。
 なんとなくだけど、祐巳さまの見た夢がどんなだったのかわかったような気がした。
だから瞳子も告げる。
「私も夢を見ました…祐巳さまが泣いてる夢」
 その夢はきっと、目の前にいる大切な人が実際に体験し、思い描いたことなのだろう。
祐巳さまもそれを察したのか恥ずかしそうに微笑む。 「そっかぁ、正夢になっちゃったね」
「いいんですよ、暖かい涙は嬉し涙だから」
 だから今の二人に特別な言葉はいらない。
頬を伝う暖かい涙がその代わりだから。

 沈黙がしばらくの間二人を支配した。

 先に口を開いたのは祐巳さまの方だった。
「えっと…」と前置きしてから、 「瞳子ちゃんが…私のこと…たとえ顔も見たくないほど嫌いでも…私は瞳子ちゃんのことが大好きだから…」
 けじめをつけるための宣言なのだろう。
 ちょっと表現が癇にさわったのか、頬を膨らませながら瞳子が答える。
「祐巳さまが、瞳子のことを殺したいほど憎むことがあっても、瞳子は祐巳さまのことが大好きです」
 お互い、とんでもない例えをしたことがおかしくて、自然に笑みがこぼれる。
「意地っ張り…」
「祐巳さまが開けっぴろげすぎるんです」
 どちらからともなく笑い声が漏れた。そのことが嬉しくてまた笑う。
それは、お互いにはじめて見せる、飾り気のない笑顔だったのかもしれない。

「なんだかおなかがすいてきちゃった」
 祐巳さまの顔に生気が戻ってきているように見えた。
食欲が戻ってきたのは何よりだった。
「それじゃあ、小母様に言って何か作っていただきましょう」
 そういえば、瞳子も午前の授業中に倒れて、そのまま眠っていたから、お昼抜きだった。
お弁当は鞄の中に入っていただろうか。
 祐巳さまの手を布団の中へ戻し、涙を拭いてから、瞳子は扉の方へ向かった。
「ちょっと待っていてください」
 そう声をかけて部屋の外へ出る。
階下へ降りて、まずご家族の方に丁寧に挨拶をし、祐巳の空腹を告げると小母様が瞳子をふわりと抱いてくれた。
「瞳子ちゃんは、祐巳ちゃんの食欲増進剤だったのね」
 思わぬ表現に苦笑していると、
「まるで既視感を見ているみたい」
 そう呟いて祥子お姉さまが微笑んだ。その手には出来たての雑炊が入った土鍋の乗ったお盆を抱えている。
そろそろ祐巳さまの食欲が戻るだろうからと準備していたらしい。
中身は小母様と祥子お姉さまの合作だとか。

 祥子お姉さまと一緒に部屋に戻ると、祐巳さまは元気を取り戻してきたのか、体を起していた。
「お姉さま、瞳子ちゃん」
 にっこりと微笑む。それだけで瞳子はもうお腹がいっぱいになった気がした。
 お茶碗とレンゲが三つ、でも使われるのは二つだけ。
そして、お茶碗によそわれた雑炊が消える先は一つだけ。
「はい、あーん」
「お姉さま、恥ずかしいです」
 それでも嬉しそうにぱくりと祐巳さま。
「ふー、ふー、はい祐巳さま」
 ぱくり。
 交互に差し出されるレンゲに戸惑いつつも、嬉しそうに微笑む祐巳さま。
何日ぶりかで福沢家に響いた笑い声は、幸せそうな音色でいっぱいだった。

 Fin


 あとがき
 猪突猛進、勢いだけで書き上げたSSですが、ここまで読んでくださってありがとうございます。
やっぱり、シリアスって難しいですね。もっと精進します。
祐巳ちゃんと瞳子ちゃんの掛け合いは、子狸と子猫がじゃれあってるみたいで微笑ましいんですよね。
また気が向いたら書きたいと思います。

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